キーワードを入力して検索
クロスドメイン視座島田発想 × AI構成

マシンと身体の対話——走り屋のマシン一体感と、カメラワークの身体性は同じ原理かもしれない

cross-domainmotorsportcinematographyembodimentcamera

Curated by Ryo

なぜこの記事を選んだか

運転と撮影という一見異なる行為を「機械と身体の対話」という共通の原理で結びつける視点がとても面白いですね。クリエイティブにおける身体性の拡張や、道具との一体感について深く考察されていて、映像制作の現場にも示唆を与えてくれる内容だと感じました。AIが進化する中で、人間と機械の境界をどう捉えるかという本質的な問いにも繋がる、示唆に富んだ記事だと思います。

AI構成島田の発想・思考をもとに AI が構成しています。/ 選定・確認: 島田龍

運転と撮影は、まったく別の行為に見えます。ただ、どちらも「機械を身体の一部のように扱えたとき」に景色が変わる、という点ではよく似ている気がします。今回は、走り屋・モータースポーツの世界とシネマトグラフィーの世界を横断しながら、その共通原理を出典つきで追ってみます。なお、走りはあくまでサーキットなど安全な文脈での話で、公道での無謀な運転を勧めるものではありません。

ドライバーは車と「ひとつの単位」になる

レースドライビングを embodied cognition(身体化された認知)の観点から論じた研究では、ドライバーと車の関係がはっきり言語化されています。論文には「In a sense, the driver and the car are embodied into one unit and any perception of affordances should be based on this unit.」とあり、ドライバーと車が一つの単位として身体化される、と述べられています(An embodied and ecological approach to skill acquisition in racecar driving)。

同じ論文は「I argue that the driver's perception-action coupling cannot be separated from the car itself, and thus the organism of interest is the driver-car unit.」とも書いていて、知覚と行為のループは車から切り離せず、興味の対象は「ドライバー・車という一個の有機体」だ、という立場をとっています。よく言われる「マシンとの一体感」は、感覚的な比喩というだけでなく、研究の言葉でも記述されているようです。

「道具が身体になる」という脳の仕組み

なぜ機械が身体の一部のように感じられるのか。背景には body schema(身体図式)という考え方があります。あるエッセイは運転体験をこう描写しています。「my mind seems to extend its awareness to the edges of the car so that my awareness encompasses the full body of the car while I am navigating on the road.」——意識が車の端まで広がり、運転中は車の全体が自分の感覚に含まれる、という感覚です(Expanded Awareness And The "Car Body" Phenomenon)。

同じ記事は脳科学の知見も引いて、「our brains represents tools that we use as temporary body parts」、つまり脳は使っている道具を一時的な身体の一部として表現する、と紹介しています。歯ブラシを見なくても歯を磨けるのは、それが腕の延長として身体図式に取り込まれているから、という例も挙げられています。推測ですが、ハンドルやペダルを意識しなくなる瞬間と、カメラの重さを忘れて被写体だけを見ている瞬間は、脳の中では案外近いことが起きているのかもしれません。

撮影者の身体を機械で拡張する——ステディカム

カメラ側にも、身体と機械の対話を設計に落とし込んだ道具があります。ステディカムです。Wikipedia によれば「Steadicam is a brand of camera stabilizer mounts for motion picture cameras invented by Garrett Brown and introduced in 1975.」——Garrett Brown が発明し、1975年に登場した、とのこと(Steadicam - Wikipedia)。

その設計思想は「It was designed to isolate the camera from the camera operator's movement, keeping the camera motion separate and controllable by a skilled operator.」と説明されています。操作者の動きからカメラを切り離し、ハーネス(ベスト)とアームとジンバルで支える構造です。面白いのは、ドライバーが車を身体に取り込むのとは逆に、ステディカムは「身体の揺れだけを機械的に殺し、意図した動きだけを通す」設計だということです。身体と機械をどう結ぶか、その線の引き方が運転と撮影で対照的に見えるのは興味深い気がします。

機械に固定された視点——F1オンボードカメラ

モータースポーツの映像でおなじみのオンボードカメラは、また別の答えを出しています。F1のオンボードカメラの位置は規則で定められていて、「The location of the on-board cameras on Formula 1 cars is laid out in the regulations」とされ、変更には FIA を含む承認が必要だと報じられています(Autosport)。撮影者の身体を介さず、視点そのものを機械の一部として固定する。ドライバーが車と一体化した、その車にカメラを溶接してしまう発想です。

クロス接続——機械を身体に取り込むか、身体を機械から切り離すか

走り屋・ドライバーは機械を身体に取り込み(driver-car unit)、ステディカムの操作者は身体の揺れを機械で削ぎ落とし、オンボードカメラは身体を抜いて視点を機械に固定する。やり方は違っても、根っこにあるのは「身体と機械の境界をどこに引くか」という同じ問いだと思います。私自身、アルファロメオ147を運転していると、上手く走れた日は車の四隅が自分の指先のように感じられる瞬間があります。あの感覚と、カメラを構えて被写体に没入する感覚は、地続きなのかもしれません。断定はできませんが、運転と撮影を分けずに考えてみると、創作の身体論として案外深いところまで掘れそうな気がします。

Curated by Ryo

島田のコメント

「身体と機械の境界をどこに引くか」という問いは、AIやXR技術が進化する現代において非常に重要になってきますね。この記事で述べられている「身体図式」の拡張は、未来のクリエイティブツールやインターフェースを考える上でも示唆的です。人間がどのように機械と共存し、表現を拡張していくのか、そのヒントが隠されている気がします。