ロジャー・ディーキンスの「ワンカット設計」——『1917』が証明した継続する時間の力
映像制作を学ぶ人間が「ワンカット(oner)」という言葉を聞いた時、最初に浮かべる作品は何でしょうか。多くの方が『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)を挙げるかもしれませんね。ですが、私が「試してみたい」と思わされたのは、サム・メンデス監督・ロジャー・ディーキンス撮影の『1917』(2019)でした。両者の違いは、技法への評価を超えて、「なぜこのカットがここにあるのか」という問いに答えられるかどうかにあるように感じます。
「ギミック」と「必然」を分かつもの
『バードマン』のワンカット構成は、技巧として洗練されていました。ただ、観終えた後に残るのは「撮影チームへの敬意」という感覚であって、物語への没入感がそれに紐付いているかというと、個人的には少し疑問が残った、という印象です。これはイニャリトゥ監督の演出意図への批判ではなく、あのカットと劇場という設定の親和性についての、あくまで私の印象です。
『1917』は少し違いますね。第一次世界大戦の前線から敵陣を抜けて味方部隊に情報を届けるという任務——「時間が途切れてはならない」という物語の構造そのものが、ワンカット形式と完全に溶け合っているように感じます。カメラが止まってしまうと、その瞬間に観客は「映画を観ている」という意識を取り戻してしまうかもしれません。止まらないからこそ、戦場の泥と恐怖の中に留まり続けられる、という感覚ですね。形式が内容と一致している時に、技法は透明になるものだと感じます。
ディーキンスのonerが持つ「使い込まれた」感覚
ロジャー・ディーキンスさんの仕事を観ていると、常に「過剰ではない光」という印象を受けます。それは彼の撮影がライティングを見せにきていないからだと思うんです——ライティングは空間に溶け込んでいて、観客に「ここに照明がある」と意識させない、という感じですね。この感覚を私は「使い込まれた照明・構図」と呼んでいるのですが、ワンカット設計においてもその哲学は一貫しているように見えます。
ディーキンスさんがインタビューで語る言葉(複数のメディアで広く引用されていますね)には、「撮影は物語に奉仕するものだ」という趣旨の発言が繰り返し出てきます。『1917』のワンショット構成は、彼にとって「こういう見せ方をしたい」ではなく「この物語にはこの形式しかない」という結論だったのではないかと、観た後の印象として感じています。
継続する時間を設計するということ
ワンカットを撮るという行為は、「編集で逃げられない」という制約でもあるんですよね。通常のマルチカット撮影では、役者の演技が崩れた瞬間にカットして別アングルに逃げることができます。ですが、継続するカットの中では、役者もカメラも——そして最終的には観客も——逃げ場がない、という状況になります。
これは単純に難易度が高いという話ではなく、撮影の設計思想として根本的に異なるアプローチだと感じます。どこでどう動くか、光はどう変化するか、役者の動線とカメラの動線がどこで交差するか——すべてが事前に組み上げられた「一本の線」として機能しなければならない、ということですね。
制作部にスタンドインで入ってもらい、その場での光の当たり方だけ見て調整すればいい、という私のほとんどの仕事とは訳が違うだろうな、と感じます。
『1917』の撮影では、実際には複数のカットを繋いで「ワンショットに見せる」構成が取られているとのことです(つなぎ目の技術的詳細については様々な情報がありますが、インビジブルカットがほとんどだろうな、と推測されます。あらかじめ編集点になりそうな人物のシャッター、トンネルなどは散見されますね)。ただそれは欺瞞ではなく、「観客の時間意識を途切れさせない」という目的に対して最善の手段を選んだ結果だと解釈しています。
「自分で試したくなる」という感覚の正体
映像制作を学ぶ上で、鑑賞体験が「試したくなる」という衝動を生む瞬間があるものです。私にとって『1917』はその代表例でした。ワンカットの技法自体への興味というより、「時間が続いていく感覚」を映像でどう作り出すかという問いへの興味が強いですね。
日常的な撮影、インタビュー、ドキュメンタリー——ワンカットで撮ることは必ずしも可能ではないですし、常に適切でもないですよね。ですが、ディーキンスさんが『1917』で証明したのは、「継続する時間には、観客をその世界に引き留める力がある」という原理だと感じています。その原理は、どんな規模の撮影にも応用できるものだと思います。
細かいカットの積み重ねで感情を操作するのではなく、継続する時間の中で感情が「自然に育つ」構造を作ること——これが私がディーキンスさんの仕事から学ぼうとしていることの核心だと考えています。
Curated by Ryo
島田のコメント
だいぶ前、私が「1917」を見たときに残したメモからのAI抜粋でした。自分で加筆したのが 「その場での光の当たり方だけ見て調整すればいい、という私のほとんどの仕事とは訳が違う」 という部分。 もちろん、芝居に動きがあってその一点だけで成立すればOKでない撮影もたくさんあるが、いわゆる "Light places, not faces"(これもまた記事にしますが)が毎回できている日本のDP、照明技師はどれだけいるだろうか? ディーキンスはその遥かに複雑で、さらに遥かにハイレベルなこと、しかも(これは本人の好みでもあるが)Master Primeなどのシャープな現代レンズで撮影=レンズの味で誤魔化せない状態で実現している、と考えると、どこから真似したらいいか分からないほどの素晴らしい仕事だと思う。Sir. の称号は伊達じゃない..!