キーワードを入力して検索
DP知見島田発想 × AI構成

光を足さず、物語を紡ぐ——Ken Loach × Robbie Ryan の自然主義撮影と、その対極を撮る男

Ken LoachRobbie Ryanシネマトグラフィー自然光DPAndrea ArnoldYorgos Lanthimos自然主義

Curated by Ryo

なぜこの記事を選んだか

ケンローチ作品好きとしてClaudeにリサーチ頼んだ記事でしたが、なかなか深い内容で書いてくれました。

AI構成島田の発想・思考をもとに AI が構成しています。/ 選定・確認: 島田龍

以前、シネマトグラフィー参照のノートにこんなメモを残したことがあります。Ken Loach と Robbie Ryan のコンビは「描く・作るというより紡いでる」撮影だ、と。センチュリースタンドすら置かない 360°ライティングで、ストーリーに寄り添うことが第一義になっている——そういう撮り方ですね。『家族を想うとき』は私のベスト16にも入っています。

今回はその「紡ぐ」感覚の正体を、出典をたどりながら少し分解してみたいと思います。面白いのは、同じ Robbie Ryan という DP が、Loach の自然主義のすぐ隣で、Yorgos Lanthimos の『The Favourite』みたいな極端に作り込まれた絵も撮っているところなんですよね。自然主義と作家性、その両極を一人で行き来している。そのコントラストまで含めて見ていきます。

ケース1:『The Old Oak』——光を「足さない」設計

まず Loach × Ryan の到達点として、2023年の『The Old Oak(邦題 オールド・オーク)』から。

撮影は KODAK の VISION3 を使ったフィルム撮影で、メインカメラは ARRI 35mm ST、バックアップに ARRI 35mm LT、レンズは ARRI Master Prime、アスペクト比は 1.85:1。夜のシーンや低照度の室内には 500T(5219)、明るい日中室内には 250D(5207)、日中の屋外には 50D(5203)を使い分けています(出典: Kodak)。Master Prime のシャープなレンズで、フィルムの素直な階調を活かす——堅実な選択ですね。

注目したいのはライティングの哲学のほうです。Ryan は Loach についてこう語っています。

"he hates front light and loves natural light, especially backlight. He gets the fear if he sees a lighting stand on the set, that's game over for him."(出典: Kodak)

フロントライトを嫌い、自然光、特にバックライトを愛する。セットにライトスタンドが一本でも立っていたら「もう終わり」だと。私のノートに書いた「センチュリーすら置かない」というのは、まさにこれだったんですね。

ただ、完全な無照明というわけでもないのが面白いところです。Ryan は続けてこう言っています。

"he has absolutely no problem with lights that are off the floor and out of shot, in the ceiling"(出典: Kodak)

床に立てず、フレームの外、天井に仕込む分には問題ない、と。光そのものを否定しているのではなく、「光の道具が見える状態」を徹底的に避けている。引き算ですが、放置ではない。このさじ加減が「紡ぐ」の実体な気がします。

出典: https://www.kodak.com/en/motion/blog-post/the-old-oak/

ケース2:『Sorry We Missed You』——16mm という選択と、デジタル拒否

同じコンビでも、2019年の『Sorry We Missed You(邦題 家族を想うとき)』はフォーマットが違います。こちらは 16mm。カメラは ARRI 416、レンズは Ultra Prime で、手持ちの運転シーンには短い焦点距離、それ以外は三脚やドリーで長めのプライム、という運用です(出典: Kodak)。

Loach はフィルムへのこだわりをはっきり言葉にしています。

"I have never felt tempted to deviate into the digital world. Film has a different quality altogether."(出典: Kodak)

デジタルの世界へ逸れたいと思ったことは一度もない、フィルムはまったく別の質を持っている、と。さらに、撮影現場のモニタリングについてもこう言っています。

"No HD taps either, heaven forfend. Anything that opens the process up beyond that makes filmmaking less personal, more blatant."(出典: Kodak)

HDタップ(現場のモニター送出)もなし。プロセスをそれ以上「開いて」しまうものは、映画作りを非人間的で露骨なものにする、と。モニターすら置かない現場というのは、いまの感覚だとかなり攻めていますね。Ryan のほうも 16mm をこう評しています。

"I love shooting on 16mm. Physically, it's a versatile format and great for tight locations and environments."(出典: Kodak)

16mm は物理的に小回りが利き、狭いロケーションに向いている、と。機材を軽く、小さく保つこと自体が、Loach の「俳優を緊張させない現場」と直結しているわけです。

出典: https://www.kodak.com/en/motion/blog-post/ken-loach-sorry-we-missed-you/

ケース3:演出そのものが撮影設計になっている

ここが Loach 演出の核だと思うのですが、彼の場合、俳優の演出方法そのものがシネマトグラフィーの前提条件になっています。

Ryan は THR のインタビューで、Loach のカメラ位置の考え方をこう説明しています。

"Ken, if he could, would have the camera in another room. He doesn't want a camera near his actors to get them distracted."(出典: The Hollywood Reporter)

できることなら、Ken はカメラを別の部屋に置きたいくらいだ。俳優の気が散るから、彼らの近くにカメラを置きたくない、と。だから望遠で離れて撮ることになる。

"If you're on a 100 mm lens following somebody walking around, you feel like a fly on a wall."(出典: The Hollywood Reporter)

100mm で歩く人を追っていると、自分が壁にとまったハエになったような感覚になる、と。長玉で離れて観察する——これがあの「ドキュメンタリー的な距離感」の技術的な裏側ですね。

同じインタビューには、Loach のレンズ運用の徹底ぶりを示すエピソードもあります。

"Ken would start a scene on a 75 mm lens, and then he realized that he hadn't used the 50 mm yet, so we had to re-shoot the whole scene."(出典: The Hollywood Reporter)

75mm でシーンを始めたものの、まだ 50mm を使っていないと気づき、シーン全体を撮り直した、と。レンズの「順番」まで設計に組み込んでいる徹底ぶりです。

そして俳優への情報制限。Loach が時系列順に撮り、台本を全部渡さず、非職業俳優を多用するのはよく知られた手法です。Ryan 自身もこう言っています。

"Ken Loach also uses a lot of non-actors. That almost awkwardness feels more real than any great actor pretending to be like that."(出典: Little White Lies)

Loach は非俳優を多用する。あの「ぎこちなさ」のほうが、名優が演じる「そう見える芝居」よりリアルに感じられる、と。

ここから先は私の解釈なので推測として書きますが——Loach の現場では、「照明を足さない/カメラを離す/モニターを置かない」という撮影側の引き算と、「台本を渡さない/時系列で撮る/素人を使う」という演出側の引き算が、同じ一つの目的に向かっている気がします。つまり「俳優にカメラと段取りの存在を忘れさせる」こと。撮影設計と演出設計が分離していない、と言ってもいいかもしれません。

出典: https://www.hollywoodreporter.com/movies/movie-features/thr-visionary-in-cinematography-robbie-ryan-1236427081/

クロスドメイン:「台本のない会話」としてのジャズ

ここで一度、映像の外に出てみます。

Loach の「俳優に先を知らせず、その場の反応を撮る」という手法を聞いて、私が連想したのはジャズの即興でした。トランペット奏者の Wynton Marsalis は、著書『Moving to Higher Ground』でジャズをこう定義しています。

"Jazz music is the power of now. There is no script. It's conversation. The emotion is given to you by musicians as they make split-second decisions to fulfill what they feel the moment requires."(出典: Wynton Marsalis & Geoffrey Ward『Moving to Higher Ground』2008)

「ジャズは"いま"の力だ。台本はない。会話だ。感情は、その瞬間が求めるものを満たそうと、奏者たちが一瞬の判断を下すなかで生まれる」。

"There is no script"——台本はない。Loach が俳優に全体の譜面を渡さず、その瞬間の split-second decision を撮ろうとするのは、構造としてジャズの即興とよく似ている気がします。書かれた完璧な演奏を再現させるのではなく、「いま起きていること」をそのまま捕まえる。これは推測ですが、Loach 流の演出は、演技を「再現」から「即興演奏」に寄せる装置なのかもしれません。そう考えると、モニターも台本も照明スタンドも置かない現場は、奏者が互いの音だけを聴いて反応する小編成のセッションに近い——という連想が成り立つ気がします。

出典: https://quotefancy.com/quote/1312996/

ケース4:Andrea Arnold——同じ自然主義でも「踊る」カメラ

Robbie Ryan のキャリアを語るうえで外せないのが、監督 Andrea Arnold との長い付き合いです。『Wasp』(2003・短編)、『Red Road』(2006)、『Fish Tank』(2009)、『Wuthering Heights』(2011)、『American Honey』(2016)と続いています(出典: Wikipedia)。

Loach も Arnold も「リアリズム」の作家ですが、Ryan はその違いをこう言います。

"They are both realist filmmakers, but they come at it from a different way."(出典: The Hollywood Reporter)

どちらもリアリズムの作家だが、アプローチが違う、と。Arnold の側の特徴はこちらです。

"All of Andrea's films are very handheld. She hates tripods."(出典: The Hollywood Reporter)

Andrea の作品はすべて徹底して手持ちで、彼女は三脚を嫌う、と。Ryan は別のインタビューで、Arnold との手持ち撮影を「ダンス」に例えています。

"Because I'm on hand-held, it's a bit like a dance. You move around with them."(出典: Little White Lies)

手持ちだから、ちょっとダンスみたいなものだ。彼らと一緒に動き回る、と。

Loach が望遠で離れて「ハエ」になるのに対し、Arnold は被写体に密着して一緒に揺れる。同じ自然光・小編成・非職業俳優の自然主義でも、カメラと被写体の距離が正反対なのが面白いですね。ちなみに『American Honey』は撮影の機動性を理由に、フィルムではなくデジタル(Alexa)で撮られたとのことです(出典: complicated road shoot の証言・Closely Observed Frames)。同じ DP でも、監督と現場の条件でフォーマット判断が変わる好例です。

ケース5:Yorgos Lanthimos——自然主義の真逆を、同じ手で

そして極めつけが Yorgos Lanthimos との仕事です。Ryan は『The Favourite』(2018)と『Poor Things』(2023)で、アカデミー撮影賞に2度ノミネートされています(出典: Wikipedia)。

ここまで見てきた「光を足さない」自然主義とは、ほとんど真逆の世界です。『The Favourite』では極端な広角・魚眼レンズで空間を歪ませ、ロウソクの灯りで撮る場面もありました。

"Sometimes, we had just half a dozen candles for illumination in a big hall."(出典: Kodak)

大広間をたった半ダースのロウソクだけで照らしたこともある、と。これは自然光主義というより、「不自然なほど美しい絵」を意図的に作りにいく方向ですね。広角の狙いについて Ryan はこう言っています。

"small characters in a big space, and a feeling of no escape."(出典: Kodak)

大きな空間のなかの小さな登場人物、そして逃げ場のなさの感覚、と。

『Poor Things』ではさらに振り切れます。Ryan の言葉が象徴的です。

"The whole idea is that it's meant to be unreal. It's not meant to be a realistic look."(出典: Screen Daily)

全体のコンセプトは「非現実的であること」だ。リアルな見た目を狙ってはいない、と。そして彼は、自分の自然光の仕事と、この大規模スタジオ作品との関係を、こう整理しています。

"I do a lot of filmmaking that's natural light... And we wanted to create that, that was the rulebook, and it was just on a big scale that took a lot of lights."(出典: Screen Daily)

自分は自然光の映画を多く撮っている。今回もその(自然光の)感覚を作りたかったが、それを大スケールで実現するには大量のライトが要った、と。

ここが Robbie Ryan という DP のいちばん面白いところだと思います。彼は「自然光か、作り込みか」という二択で生きていない。Loach の現場では一本のスタンドも嫌われるほど引き算をし、Lanthimos の現場では「自然光に見える非現実」を大量のライトで作り込む。手段は正反対でも、根っこにあるのは「その作品が何を必要としているか」という一点だけ、という気がします。

出典: https://www.kodak.com/en/motion/blog-post/the-favourite/https://www.screendaily.com/features/cinematographer-robbie-ryan-on-bending-the-rules-for-poor-things-its-not-meant-to-be-a-realistic-look/5189260.article

まとめ:紡ぐことと、作り込むこと

最初に書いた「描く・作るというより紡いでる」というメモは、Loach × Ryan の現場では文字どおりだったわけです。光を足さず、カメラを離し、台本も渡さず、その瞬間に起きたことを糸を手繰るように拾っていく。以前このメディアで書いたダルデンヌ兄弟(窓に ND だけの「消えるカメラ」)や、ディーキンスの『1917』(時間を技術で「作る」ワンカット)とも、地続きの問いがある気がします。つまり——どこまで作り、どこから手放すか。

そして Robbie Ryan は、その問いの両端を一人で行き来している珍しい DP でした。Loach 流の「手放す」撮影と、Lanthimos 流の「作り込む」撮影。同じ人間がどちらも一流でやれるというのは、結局「自分の好きなルック」を持ち込む職人ではなく、「この物語に必要な光」を毎回ゼロから問い直せる人だから、なのかもしれません。やっぱり、有名な DP ほどシンプル、というスヨルの言葉ともどこかで繋がっている気がします。


出典

Curated by Ryo

島田のコメント

「家族を想うとき」は人生トップ5ですが、まさかここまでの厳しい哲学で撮っていたとは… Robbie Ryanの引き出しの多さと、優れたDP共通する「物語や芝居を全力で尊重する姿勢」は勉強になりますね。